エドウィン・O・ライシャワー

Edwin O. Reischauerエドウィン・オールドファザー・ライシャワー(1910年10月~1990年9月)は、東京を拠点に活動をしていたキリスト教長老派教会宣教師の家庭に生まれ育ちました 。16歳の時に日本を離れオーバーリン大学へ入学。その後、ハーハード大学へ進み東アジア史を専攻。その間、5年間はパリ、東京、京都、北京へ留学します。1938年、夫人のエイドリアンとともに米国へ戻り、1939年に博士号を取得。その後、1941年に国務省および米国陸軍のリサーチアナリスト、軍の日本言語プログラムのオーガナイザー、翻訳者として抜擢されるまで、極東言語学部において教鞭を執りました。1946年にハーバードに戻ってからは、東アジア学の新カリキュラムの発展を指揮、また著作活動に専念しました。この教育の「黄金時代」(ライシャワーの言葉を引用)にジョン・K・フェアバンクとともに教えていた東アジア文明の授業は「ライス・パディーズ」と呼ばれ、現在もハーバード大学で一般教養授業として開講されています。

Edwin Reischauer and Haru Matsukata

1960年、ライシャワーが執筆した日米間の緊張関係に関する論文が当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディの目に止まり、駐日大使(1961~1966年)に任命されました。日米間の対等な関係を目指したライシャワーの外交は「日米パートナーシップ」と称されました。常に国民の立場に立つことを忘れなかったライシャワーは、東京出身のジャーナリストで妻となる松方ハルとともに、日本の一般市民に人気を博します。ハルは、大使また学者である夫のライシャワーを公私ともに献身的に支えました。1966年にハーバード大学へ教員として戻ったライシャワーは引き続き「ライス・パディーズ」の授業を担当しました。また当時のライシャワーの社会問題への強い関心を反映し、政治学部にて日本政治の授業を新たに開講、さらには米国・東アジアについての歴史学の授業に関わりました。著書には、ジョン・K・フェアバンクとアルバート・M・クレイグの共著による『East Asia: Tradition and Transformation』(1973) 等。

ライシャワーはその後、「日本研究所」の設立に尽力し、その功績から同研究所は「エドウィン・O・ライシャワー日本研究所」と改称されました。ライシャワー自身も1974年~1981年の間、所長を務めています。1981年の引退まで、日米関係の強化を目標に、教育、執筆活動、その他様々な研究活動に従事しました。ハーバード大学でのカリキュラムの拡充にとどまらず、東アジア全体に関する研究を推進することを目標とし、米国民が日本を含めた様々な国々への理解を深めることに貢献しました。ライシャワーのこのような功績が、その名を継ぐライシャワー日本研究所の使命の礎となっています。